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セレンディピティ

セレンディピティ

アスカ

アスカ族

今から一万年ほど前、最後の氷河期が終わり、急激 な気温上昇のために世界各地で大洪水が発生し、 平野部に存在した文明を壊滅させた。
このとき滅びた文明の中に「アスカ文明」と呼ばれるものがあった。
この古代文明を形成した民族は、北方のシベリア大陸を起源とするモンゴロイドだった。その民族をアスカ人と言った。
モンゴロイドは二系統に大別される。
アスカ人はその内の原モンゴロイドと呼ばれている系統に属し、
今日のシベリア北部にいる諸民族と同じ系統だった。
 特徴としては比較的顔の彫りが深く、毛深い。
 血液型はO型が多く、ずんぐりした体型をしていた 。

BC2万年期、アスカ人の一部は気候の寒冷化に 伴い、南下する巨大獣を追って移動し、中国大陸に到達した。
中国大陸部に進入した当初、アスカ人は尖頭器文化に代表される後期旧石器時代の文化を有していたが、BC19000年期になると、細石器文化に至り、中石器時代を迎えた。
この頃になると、西方の民族との接触により遊牧の技術を獲得し、食生活も安定してきた。 
原始的な狩猟採集と遊牧生活を送っていたアスカ人が急速に文明化した最大の要因は、
稲を発見し その栽培法を確立したことによった。
現在水没している東シナ海大陸棚には、当時至る ところに湿原があり、そこにはジャポニカ種の稲が自生していた。稲の発見はアスカ人に人口の急増と、村落の形成をもたらした。
東シナ海大陸は土地も広大で人口も多かった。しかし、水利をめぐる同族間の争い、北方異民族や山岳部族の侵入、当時多数生息していた虎や狼などの猛獣による被害などのために、彼らが文明を築くゆとりは生じなかった。この当時、極地に存在した巨大な氷層のために海面は現在よりも120メートルほど低く、そのため東 シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊だった。( この大陸を仮に「東シナ海大陸」と呼ぶことにする)


後発で東シナ海大陸に侵入して来たアスカ人は中石器時代の文化程度だったが、社会形態はネグリト族よりも進んでいた。
 ネグリト族の社会は漁労採集を中心とする母系の家族社会だったが、アスカ人はすでに農耕技術を持ち、職種の分化、階級制度も存在した。
 アスカ人はすでに黄海沿岸部でネグリト族と接触し ており、彼らを原始的な裸族と見下していた。
 南方系のネグリト族は衣服を纏う習慣がなかった。 儀礼用にペニスケースや腰蓑を着用することもあっ たが、全裸で過ごすことがほとんどだった。
 一方アスカ人は、もともと北方からやって来た民族なので、毛皮や植物繊維の衣服を着ていた。
 さらには牧畜を始めてからはフェルト製品も着てい た。
 ところが、東シナ海大陸では同じネグリト族でありながら、アスカ人が見たことのない未知の金属を持っていた。
 特に彼らが銅鏡を見たときの驚きは想像を絶するものだった。アスカ人も黒曜石の平皿に水を浮かべる水鏡は知っていたが、単体の鉱物によってそれ以上の効果のあるものが作られるなどということは考えようもなかった。
 太陽光を反射する銅鏡はネグリト族にとって太陽の化身として神聖な宝物だったが、それを見たアスカ人も同様に認識した。 それまでアスカ人は部族ごとに特定動物の精霊を信仰するトーテム信仰が主流だったが、この銅鏡を知ってからは太陽信仰に改めた。
 アスカ人は東シナ海大陸のネグリト族に対しても当初から軍事的に優位だったが、彼らを駆逐するようなことはしなかった。 彼らを祭祀族として受け入れ、自然に融合していっ た。



ムイ族
この当時、極地に存在した巨大な氷層のために海面は現在よりも120メートルほど低く、そのため東シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊だった。( この大陸を仮に「東シナ海大陸」と呼ぶことにする)
BC18000年期になると、アスカ人の内の東方の沿岸部にいた部族は、対岸の琉球諸島に移住した。 その部族をムイ族と言った。
奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現在よりも三倍から十倍の面積を持つ大島だった。 さらに沖縄本島、宮古島間にも大島が存在した。
沖縄地方の総面積は現在は奄美諸島を含めて3200平方キロメートル程度で
あるが、当時は合計すると18000平方キロメートルあった。
ムイ族は上記の内のいずれかの事情で定住をあきらめ、対岸の琉球諸島に移住したのだった。
BC16000年期、琉球諸島に移住したムイ族は その地で文字を発明し、
アスカ文明に先行する世界 最古の文明「ムイ文明」を確立した。
ムイ族が世界最先端の文明を持つことが可能だったのは、琉球諸島が地理的条件に恵まれていたせいである。 更新世における東シナ海大陸沿岸地方は、現在よりも平均気温が
4度C程低く、湿度も相対的に低かった。
琉球諸島は、海洋性の気候のため年間を通じて気候も温暖で、台風の襲来に悩まされることもあった が、そのおかげで水不足に陥ることは少なかった。
ムイ族が沖縄に渡ったのと

スイジン族
ほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に渡った部族もあった。その部族 をスイジン族と言った。
この当時、朝鮮半島南端部と東シナ海大陸とは地続きだった。
朝鮮半島と日本列島の間には現在よりも数倍も大きい対馬があり、西水道と東水道が存在したが、西水道は十数キロ、東水道にいたっては僅か数キロしかない狭い海峡だった。壱岐は本州の一部だった。
当時の日本列島は、北部や中部の山間部は寒冷な気候だったが、南部の沿岸地方は比較的温暖な気候だった。
当時の日本周辺の地形は、樺太が沿海州と地続きで、樺太から北海道・国後島までが大陸の一部であり、冬季には氷結した津軽海峡を隔てて本州、佐渡島、四国、九州、屋久島、種子島までがサーベル状の巨島として存在していた。
その島はスイジン島と呼ばれた。スイジン島に渡ったスイジン族は稲作の最適地を求めて南下北上を続けた。  スイジン族が侵入する以前のスイジン島の南方沿岸部にはメラネシア系の海洋民族やネグリト族が定住していた。
彼らは漁労とタロイモ、ヤムイモ栽培等の原始的な農耕を行っていた。
スイジン族の侵入が開始されると、先住民族は山間部に追いやられていった。
文化的にも軍事的にもスイジン族の方が優勢だった。
当時のスイジン島は現在の屋久島沖が最南端だったが、そこから更に二十キロ離れたトカラ列島に渡る部族も現れた。トカラ列島の南端から奄美諸島までは40キロあったが、中間地点に停泊可能な岩礁があった。奄美諸島から琉球諸島までは連綿と島が続いて いた。

ネグリト族
琉球諸島は先住のネグリト系種族がわずかに原始的な漁労採集を営んでいただけで、ハブ以外に猛獣の類もおらず琉球諸島は先住のネグリト系種族がわずかに原始的な漁労採集を営んでいただけで、ハブ以外に猛獣の類もおらず、そこに移住したムイ族は稲作が普及すると、すぐに生活のゆとりを生じた
特に現在水没している宮古島北東沖にあった陸塊 は、全島が平坦で、過去の
間氷期に水没を経験して いるのでハブもおらず、大いに栄えた。
その島はニライ島と呼ばれていた。面積は3000平方キロメートルほどだった。
この島を中心にBC16000年期には農耕を基盤とする古代ムイ文明が形成されたのである。BC一万六千年期後半には東シナ海平野部では 都市が発生し、そこの首長が国家の主催者になった 。
 東シナ海大陸や琉球諸島に先住したネグリト族は 太陽を崇拝する信仰を持っていた。ネグリト族は当 時マレーシア、インドネシア間に存在したスンダランドから渡航してきた。
 スンダランドは、現在のビルマの一部、タイ、カンボ ジア、マレーシア、ベトナム、及び、スマトラ島、カリマ ンタン島、ジャワ島、パラワン島にまたがる六百万平 方キロメートルの地域で、更新世末期には全域が地 続きの巨大陸塊を形成しており、全域が熱帯、亜熱 帯に属し、当時地球上で最も動植物の種類と数に 恵まれていた。
 更新世の人類はあらかたが狩猟採集生活を営んでいたので、当然原ポリネシア族やネグリト族・ドラビダ族・メラネシア族、さらにはアボリジニーやモンゴ ロイド系諸部族、寒冷化が最も進行した氷河期の末期には、セム族・インドヨーロッパ系部族までがこの地で生活していた。





 ニライ島で発生した文明は隣の宮古島に伝わり、 さらに南下して石垣島にも伝えられた。
当時の宮古島は現在の宮古列島全域が一つの島になっており 面積は5000平方メートルあった。この島はカナイ島と 呼ばれニライ島に次いで繁栄した。
 石垣島は西表島と合体しており、面積は千五百平 方メートルあった。
この島はムイガ島と呼ばれていた 。これら三島間では交易が頻繁に行われた。

 地域文明にすぎなかったムイ文明は東シナ海大陸 やスイジン島にも伝播し
「アスカ文明」に発展した。

  民族間の接触も盛んで、BC三万年期からBC二 万年期までは世界で最も先進的な地域だった。
 スンダランドは鉱物資源にも恵まれていて、金、銀 、銅の露出している鉱脈がいたるところにあった。
 山火事等による自然融解した金、銀、銅を発見す ることによって、ある種族はこれらの金属の道具とし ての使用を思い立った。
 これらの金属は展性延性に優れており、高等な冶 金技術などなくても、石器や骨器などで気長に叩くな どの手段によって原始的な金属器を作り上げること に成功した。
 当初は祭具や族長のアクセサリーに使用されてい たが、供給が多くなるにつれて、生活用具としても利 用されるようになった。鏃や釣り針などに使用され、 後にはナイフや鏡等も作られるようになった。
銅は金や銀と比較して産出量が多く丈夫なため、彼 らが獲得した道具の中では格段に優秀な素材だっ た。
 しかし、彼らが精錬した銅は不純物が多く、硬質で 脆性が強かったので加工しにくく、その用途は限ら れていた。
 鉱石を溶かして玉状にした銅をまだ柔らかい内に 平たく延ばして、後は砂や木の実などで研磨し銅鏡 が作られた。
この銅鏡製造の技法は物々交換などでスンダランド の多くの部族に広まった。


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